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2006.07.10 Mon
*過去話捏造
*手塚九州行きのお話です
甘い花の芳香に誘われて不二はそこに足を踏み入れた。足許にはピンクの絨毯が一面に広がっており、敷き詰めらた花弁が芳しい匂いを放っている。
辺りは騒がしかった。
小鳥のさえずり、草木の揺れる音、そして、何かが抜けるように弾ける音。
最後のそれを不思議に思い、不二は音のする方へと歩いていった。茂みだらけの道を掻き分け、広場のようなところに出る。
そこにそれはあった。一心不乱に腕を振り続ける少年。まだ幼い。不二と同年くらいであろうか。
少年はふと止まり、茂みにいる不二を振り返った。
不二は驚いた。そして驚きのままに踵を返して走り去った。驚いた。
心臓が早鐘のように脈打っている。
だって、綺麗だったのだ。綺麗過ぎて驚いたのだ。不二に気づき振り返った少年の漆黒が、脳裏に焼きついて離れない。
彼に顔を見られたろうか。
不二はそこかしこに突き出ている鋭い木枝で柔らかい肌が傷つくのも厭わず、茂みの中を一気に駆け抜けた。
片恋
筆記用具をすべらせていた手をふと止め、不二は窓の外を見た。
とても静かな夜だ。窓枠に隠れるようにしてあわやかな月が浩浩としている。
不二はため息を吐いた。
どうして。
何がどうしてこうなってしまったのだろう。
始まりはいつだったのか。
彼が氷帝戦の折に左肩を壊したときだったか。
2年と少し前、ステージに立ち、とても中学に上がったばかりの子供とは思えぬ様子で彼が総代を務めたときだったか、それとも。
如何にせよ、何かが始まってしまったことは確かであった。
運命の歯車が廻り始めた――とは、小説如何で良く目にする決まり文句だったけれども。
まさにそういうことなのかも知れなかった。
不二がその日、人気のない道へと進んで行く彼を目にしてしまったのはあるいは不幸だったのかもしれない。
日直の不二が体育の授業に使ったコーンやらメジャーやらを片していると、少し離れた位置に横たわる渡り廊下を馴染みの顔が通っていく。手塚、と声をかけようとして、彼の視線が何かを捉えていることに気がついた。
真っ直ぐで長い黒髪が美しい少女。
不二は何だ。嫌な場面を見てしまったと息を吐く。
しかしそういう不二もこういう――いわゆる告白の場面に立ち会うことは少なくない。
見目や振る舞いの柔らかさに憧れるのか、彼女たちは不二に向かって必死な様子で愛を囁きかける。
否、恋と呼ぶべきであろうか。
不二には何がそんなに「好き」なのかが解らなかった。
不二も人間である。好意を寄せられて嬉しくないわけはなかったが、かといってそのような感情を実感できるわけでもなかった。
一度気紛れで自分の何が好きなのかと問うたことがあったのだが、しかし相手は困ったように俯くばかりで、ついぞ返答は得られなかった。
つまり、そういうことなのだろう。
彼女たちは不二という人間を理解した上で愛だの恋だのを囁きかけてくるわけではなかったのだろう。
眼前の光景に視線を引き戻す。
不二の位置からでは彼の表情などほんの少しも見えはしなかったが、少女が慌てて走り去ったところを見るだに彼は少女の想いを受け流したようだった。
当たり前だ。彼の中に少女のような存在が入り込める隙などあるわけがない。
彼の中はテニスと勉強で9割以上が占められている。彼を長年見てきた不二だからこそ、確信して言える事実であった。
「手塚」
軽く項垂れた様子の背中に声を掛けるととんだ顰め面で鋭く睨まれた。彼のこの表情は不二の大変な気に入りである。
「災難だったね。誰?1組の女の子?」
「どうしてお前がここにいる」
嫌だなあ、別にコソコソと後をつけてきたわけじゃないよと不二はうそぶく。
「僕は僕の用事でここにいるだけ。で、誰?」
「――委員会で共に仕事をしている女生徒だ」
『女生徒』とは、なんと手塚らしい言い回しであろうか。
ふうん、と気のない返事で不二は手塚に触れた。肩、腕、指。
確かめるように。
「こんな朴念仁のどこがいいんだって思うけどねえ。ま、君は見目がいいし、才能もあるから女の子たちが寄って来るのは仕方がないのかな」
でも、解っていないよね。不二は言った。
そうだ。解っているわけではない。自分の時と同様、彼女に同じ問いを投げかければ同じ様な反応が返ってくることだろう。
彼女たちもまた、手塚という人間を理解した上で告白を挑んでくるわけではないのだ。
いわば手塚はステータスだ。彼女自身を満足させるための。
そんなくだらないもののために彼は彼の貴重な時間を侵されている。害だ。迷惑だ。
……目障りだ。
不二の言葉に手塚がさも解らないという風に首を傾げる。曰く何が『解っていない』のか、と。不二はムッとした。
「何がって、そういうところが、だよ」
手塚の思考を腹立だしく感じた。
それはある種の裏切り、または絶望にも似ていたろうか。
不二はそのまま踵を返すと、手塚をその場に捨て置いて教室へと戻った。一度も振り返らずに。強い歩調を保って。
物言わぬ手塚の視線を痛いほど背中に感じたのだが。
気分が昂り、頬が紅潮していた。
午後の部活で不二は荒れた。
力任せにボールを打ち込んだり、えげつないコースを好んで狙ったりと。
平素では到底考えられないことだった。
不二は同輩からも後輩からも物腰の柔らかく温かい人間だと思われている。そういう様に彼が繕ってきた。
しかしその日の不二の様子は誰の目から見ても不機嫌が明らかで、自然不二の周りには空気ばかりの大円が描かれたのだった。
肩で息をつく不二に声を掛けようとする者はいない。不二の親友を自称している菊丸でさえ、大石の陰に隠れて友人を凝視するばかりである。
こんな不二に唯一声を掛けられる人間があるとしたら、それは彼以外にありえなかったであろう。
「不二」
彼は呼んだ。不二は緩慢な動作で彼を見た。
「部室へ」
それは命令。至極静かであって強かな。不二は無言で彼の後ろに従った。
部員たちが遠巻きに彼らの様子を伺い見ていた。
「どういうつもりだ」
「何が」
日が正面から入らないような造りになっている部室は、昼過ぎでも電気をつけなければ薄暗く感じられた。彼の顔に纏わる陰影が動く度にゆらゆらとしていて面白い。不二は純粋にその様子を楽しんでいた。
窓が締め切ってあるため蒸し暑く、背中に汗がじんわりと滲むのを感じる。
どうやら窓際に陣取った手塚は、暑いので窓を開けるといった機転の利かない質らしい。
空は青く清清しいのに、部室の中だけが湿度で別世界に切り取られたように思えて可笑しいと不二は笑んだ。手塚の眉宇が顰められる。
「あんなテニスをして、お前は何を考えているのかと聞いている」
手塚の強い視線は不二の好むものであった。
話の内容はともかく手塚の綺麗な顔立ちやら、やたら真っ直ぐ見据えてくる漆黒の双眸などが視界に飛び込んでくるので不二は話に集中できなかった。
不二、と再度手塚が嗜めたので、不二は聞いてるよと言った。
そんなに怖い顔などしなくても。
「君の気分を損ねたのなら謝るよ。体調が悪かったんだ。あんなテニスをしてしまって、皆にも嫌な思いをさせたよね。ごめんね」
淡々と、ただ穏やかな口調で、しかしいつものような笑顔は見せずに言う。
手塚の顔が目に見えて険しくなる。しかし彼はそれ以上の追求をしてこなかった。したところで不二が相手では時間の無駄だと解っていたのかもしれない。
そうか、と短く吐き捨てると去り際に「気をつけろよ」などと残してくれたものだった。
まさか不二の話を鵜呑みにしたわけでもあるまいに。
誰もいなくなった部室で不二は手塚の消えたドアをいつまでも眺めていた。
やがて部員たちが戻ってくる頃になると、不二はようやく動き出した。
心ここにあらずといった様相で不二は帰宅したのだった。
彼と初めて会ったのは、入学式後の桜舞い散る裏庭であった。否、「初めて会った」というより「初めて向き合った」という表現のほうが正しいのかもしれない。
手塚と不二はその昔、たった一度だけまみえたことがあったのだから。
不二も手塚もお互いに幼かったし、ほんの一瞬ともいえる時間でしかなかったので覚えていないのも無理からぬことではあったが。
しかし不二はひとめ見た瞬間に彼だと分かった。
新入生総代を務める彼の姿を見て瞠目した。
だからこそ彼の後を追って人気のない裏庭になど足を運んでみたのだ。
「桜、綺麗だね」
不二は話しかけた。
相手は不二に気づいて振り返り、いったい何だろうといった様子で不二をじっと見つめた。
「君、さっき総代やってた子だよね。すごいな。今年の入学試験では満点が出たって先生たちが話しているのを聞いたからそれって君のことだよね。勉強好きなの?スポーツは何かやっているの?」
手塚はじっと無言でいた。不二はいろんな意味で硬そうな子だなと思わないでもなかったが、得意の笑顔を作ってにこにこと相手の返答を待った。
「満点だったかどうかは分からない。勉強は嫌いじゃない。スポーツはテニスをやっている」
手塚はひとつひとつの問いに、まるで一問一答のような答え方をした。不二は面食らった。
曰く変な子供だな、と。
「へえ、テニス」
そういえば、彼を最初に目にした時に、彼はラケットのようなものを持ってはいなかったか。
不二は記憶の中を探ってみる。
「それじゃあ入る部活はもう決めているの」
「ああ、テニス部に入ろうと思っている」
そう言った手塚の顔がほんの少し楽しそうに見えたので、不二もテニスというスポーツに俄の興味が沸いた。
この無表情を歪ませるほどの魅力を持ったスポーツ。面白そうだ。
不二は生来大した努力という努力をせずとも大抵のことはこなせる人間だったので、これといって強く興味を惹かれるものなどないように思えた。
しかしテニスは別物かもしれない。面白いものなのかもしれない。手塚を見てそう思った。
万が一テニスがどうにもつまらないものであったとしても、手塚が一緒ならばそれも楽しめるかもしれない。
不二はそのとき心に決めた。
数日後、テニスコートに集まった進入部員の顔ぶれを見た彼が不二に気づいて軽く首をかしげたのが不二には印象的だった。
交わした会話は数えるほどであったし、クラスも違ってしまって会う機会もなかった彼が自分を覚えていてくれた。嬉しい気持ちがした。
更に彼は強かった。なるほど、テニスが好きだと顔を歪ませるだけの実力が彼には備わっていた。
そのお陰で上級生には煙たがられているようなきらいもあったが、彼はまったくそんなことなど意に介していないようだったので、不二も何食わぬ顔を装っていた。
彼とはすぐに仲良くなった。
あの鉄面皮が慣れてくると、会話の合間にちらほらと笑顔を見せるようにもなった。
春は過ぎ、緑が萌え広がり、暑い日差しとともに夏がやって来ようとしていた。
机上でため息をつくと、どうしようもなく鬱屈した気持ちになった。
誰だったか昔、ため息をひとつ吐くごとに幸せがひとつ逃げると言った人がいたっけな。ボンヤリと考える。
窓から見える月があまりに黄色いように思えて、不二は何だか嘘くさいと思った。
本のページをめくる。読んでいる小説の話が頭に入ってこない。
先ほど勉強をしていてもあまりに意味がなかったので息抜きにと始めた読書であったが、好きな作家のそれであってもまったく気紛れにもならなかった。
どうやら今夜はそういう気分であるらしい。
不二は本を閉じ、またひとつ大きなため息を吐き出した。
「まったく、何で僕がこんな思いをしなきゃならないんだ」
脳裏に浮かんだ顔を恨めしく思う。
鉄面皮。
まったくもって恨めしい。
彼さえいなければ自分はこんな気持ちになどなることはなかったろうにと不二は吐き捨てたい気持ちだった。
しかし、彼のことを思うと自然身体が熱くなる自身のことも、不二はよく理解している。
「真剣勝負とはこういうものだよ」
これはかの氷帝戦の折に部員たちに言って聞かせた言葉だった。負傷した手塚に持久戦をたたきつける相手選手に対して部員たちが罵ったのを諫めた言葉である。
しかし不二自信納得のいかない気持ちでもあった。
どうしてそんな勝負をするのだろうと。
手塚も手塚だ。ここで意地を張って取り返しのつかない負傷を負うよりも、控えの後輩に任せてしまえば良いものを。
どうせ相手チームの控えの選手になど、あの勝気な後輩が負けるはずないのだから。
そんなにまで頑なに意地を張ったところで何の意味があるのかと、不二は再三問いただしたかった。
結果手塚は敗北の上重傷を負い、遠い九州へとはるばる治療のために旅立つはめになった。
全国大会を眼前に、部員たちを置き去りにして。
「まったく…」
ため息と共に不二は繰り返した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。そればかりが頭の中を支配する。
明日、手塚が帰ってくる。
休学の手続き等の一時的な滞在ではあったが、当然部活にも顔くらいは出すのだろう。
不二は明日どのような顔で手塚に会ったら良いものかと机上でえんえん思いあぐねていた。
空は抜けるように青く、高い。
日本の夏独特の湿気が不快に思わなくもなかったが、天候としてはなかなかの部活動日和である。
久々に姿を現した部長に、部員たちは気の引き締まる思いで部活に臨んでいた。
つい先程までミスばかり繰り返していた菊丸が「たるんでいる」との一喝で校庭を10周させられたのが効いているのかも知れない。
不二は遠目から何度も手塚の様子を伺い見ていた。
さすれば視線がかち合うのも道理というもので。
気づいたときにはもう遅く、手塚が不二めがけて一直線に歩いてくる。
不二は逃げ出したい気持ちに駆られた。
「不二」
久方ぶりに呼ばれた名前に一瞬背筋がゾクリとした。
不快なのではなく、これはきっと。
「話がある。部活後少し、居残ってくれないか」
「別に、良いけれど」
何食わぬ顔を装ってはいるが、内心心臓が張り裂けそうであった。
ああ駄目だ。酸素が薄い。先程からどういうわけだか呼吸が上手くいかない気がする。
胸が苦しい。
近寄らないで、空気に溺れてしまいそう。
熱く混乱する不二を残し、それではまたと手塚が去っていく。
手塚が不二に背を向けた瞬間不二の呼吸が戻り、生き返ったかのような心地がした。
手塚の背中を見つめながら、不二は昨夜の思考を反芻する。
――こんな思いを、この先ずっと続けるくらいなら。
いっそ全てを吐き出して終わりにしてしまうのも良いのかも知れない。
ため息がこぼれた。
人気のなくなった部室は哀愁ばかりが漂っていて、これがそういうものなのかと不二は思った。
数年後ここの空気を吸ったならば泣いてしまうかもしれないな、と。
部員たちがいなくなってから大分時間が経っていた。
日も傾き赤焼けの空が覗いている。
ロッカーに残っていたぬくもりさえももう全て払拭されてしまっただろう。
不二は手塚を見遣る。
そうして放っておけばいつまでも口を開きそうもない相手に話は何かと切り出した。
手塚は言った。
「不二の気持ちが知りたいのだが」
「………え?」
あまりに唐突で不可解な展開に、不二は当然のことながら瞠目した。
手塚は感情の見えない表情で黙々と続ける。
「今日久しぶりに不二の顔を見たら、何となく、どうしても聞いてみたくなったんだ。お前が俺を、どう思っているのか」
「何……だよ、それ?」
不二はこの機会に手塚へ自分の気持ちを打ち明けるつもりでいた。
だがしかし、手塚がまさかこんなことを言い出すとは思ってもみなかったので、不二は躊躇い、そうして少々かわしてみることにした。
「君の意図するところが解らないのだけれど?」
「そんなことなどどうでも良いだろう」
「…………」
ねえ、と、不二はふと浮かんだ考えを、まさかと思いながらも口にする。
「それって、告白?」
手塚はしばし考えるようにしてから、「そうかもしれない」と言った。
そんな手塚のとぼけたような様子に、不二は何もかもが馬鹿らしく思えてきて。
一瞬零しそうになった涙を堪え、微笑った。
「九州にはいつ頃戻るの」
不二の問いかけにあと2、3日だと答えながら手塚は身繕いをしていた。
「2、3日かあ。じゃあ明日、少しだけ僕に時間をくれない?行きたい場所があるんだ」
「それは構わないが」
しかしそれはどういった場所なのかと聞きた気な様子の手塚に不二は笑って行ってみれば分かるとだけ言った。
「いいところだよ」
「そうか、それは楽しみだな」
先程まで熱い情交を交わしていたとは思えぬストイックさで手塚は言った。
手塚は眼鏡を外すと変わると思う。
あの真っ直ぐな眼差しがレンズを通さないで直に届くと、不二はどうしようもなくやり過ごせないほどの情動を駆り立てられるのだった。
手塚のレンズはいわばオブラートであったろう。苦い薬を包み込んだ甘い甘いコーティング。たまらない。
翌日部活動の後、校門で待ち合わせてその場所に行こうと約束事が取り決められた。
手塚は手続きの書類うんぬんで部活動には顔を出せなかったので。
春先には花弁で埋め尽くされるその場所は、今は緑でいっぱいだった。
あの頃は胸の近くまで圧迫してきた例の茂みは、今では不二の腰元にも及ばないくらいになっている。
不二は懐かしんだ。
「ここは…」
手塚は驚きを隠せないようだった。
それもその筈、ここは公園のある一角を入り口として、手入れのされていない茂みを抜けていかなくては辿り着けない場所なのだ。
このように日常から離れたような空間を知っている人間は少ない。
ここは彼のいわば秘密基地であったのだろう。
「ここでね、僕は初めて君を見つけたんだ」
不二は笑った。
手塚は驚いたように不二を見た。
「君はきれいな動きでラケットを振るっていて、思わず眸を奪われた。僕はしばらく君の背中を眺めていたのだけれど、そのうち気づかれて、振り返った君に驚き走って逃げた」
懐かしいでしょうと不二は笑う。不二は楽しそうだった。
記憶の世界に浸りきっている不二の耳に手塚の呟きが聞こえなかったのは無理もない。
「そうか…、お前、が…」
あまりに素早い反応だったので、顔までは伺い見ることが出来なかった。
あれはもう幻であったのだったと言い聞かせては記憶の底に封じ込めていたというのに。
あの日、手塚と不二は初めて出会い、そうして互いに思いが芽生えた。
しかしその時の思いと記憶は、運命の悪戯によって、長くすれ違ってしまっていたのだった。
「…そうか……」
口を押さえて頬を染めた手塚の様子になど、不二はまったく気づかなかった。
喧騒の中に凛とした女性のアナウンスが混じる。不二の座る席の前には手塚の少ない荷物が鎮座していた。
まだかな、と腕をあげては時計を覗く。手塚が席を外してからもう随分と経っているような気がする。
「手塚」
人込みの向こうに見知った顔を目ざとく拾い、不二は呼びかけた。
それに気づいた手塚は小走りに不二のもとへと歩み寄る。
「すまない、待たせたな」
「ううん。もう搭乗手続きは終わったの?」
「ああ。それでこれ…」
手塚はポケットの中から何やら取り出すと、ぶっきらぼうにそれを突き出した。
「何これ…花?」
「何か記念になるものをと店を探してみたのだが、良いものがみつからなくてな。ちょうどそれが目についたので少々失敬してきた」
「手折ってきたの?」
呆気に取られた様子の不二に、気に入らなかったかと手塚は呟く。
不二は咄嗟に首を振って嬉しいと笑った。
「手塚が贈り物とか珍しいなって思っただけ。すごく嬉しいよ。大切にする。乾燥させてしおりにでも加工するね」
「喜んでもらえたのなら良かった」
手塚はそう言うと腕の時計をちらりと見、もう行く、とだけ短く言った。
「早く治して帰って来てね」
「ああ」
別れの会話はこれだけだった。
轟音と共に飛び立つ機体を不二は見送る。青い空の中にそれは飲み込まれていった。
まるで彼のこれからを暗示するような清清しい青だった。
手元に遊ぶ小さな花に顔を寄せると、甘い甘い匂いがした。
あの、淡い記憶にあるような。
*手塚九州行きのお話です
甘い花の芳香に誘われて不二はそこに足を踏み入れた。足許にはピンクの絨毯が一面に広がっており、敷き詰めらた花弁が芳しい匂いを放っている。
辺りは騒がしかった。
小鳥のさえずり、草木の揺れる音、そして、何かが抜けるように弾ける音。
最後のそれを不思議に思い、不二は音のする方へと歩いていった。茂みだらけの道を掻き分け、広場のようなところに出る。
そこにそれはあった。一心不乱に腕を振り続ける少年。まだ幼い。不二と同年くらいであろうか。
少年はふと止まり、茂みにいる不二を振り返った。
不二は驚いた。そして驚きのままに踵を返して走り去った。驚いた。
心臓が早鐘のように脈打っている。
だって、綺麗だったのだ。綺麗過ぎて驚いたのだ。不二に気づき振り返った少年の漆黒が、脳裏に焼きついて離れない。
彼に顔を見られたろうか。
不二はそこかしこに突き出ている鋭い木枝で柔らかい肌が傷つくのも厭わず、茂みの中を一気に駆け抜けた。
片恋
筆記用具をすべらせていた手をふと止め、不二は窓の外を見た。
とても静かな夜だ。窓枠に隠れるようにしてあわやかな月が浩浩としている。
不二はため息を吐いた。
どうして。
何がどうしてこうなってしまったのだろう。
始まりはいつだったのか。
彼が氷帝戦の折に左肩を壊したときだったか。
2年と少し前、ステージに立ち、とても中学に上がったばかりの子供とは思えぬ様子で彼が総代を務めたときだったか、それとも。
如何にせよ、何かが始まってしまったことは確かであった。
運命の歯車が廻り始めた――とは、小説如何で良く目にする決まり文句だったけれども。
まさにそういうことなのかも知れなかった。
不二がその日、人気のない道へと進んで行く彼を目にしてしまったのはあるいは不幸だったのかもしれない。
日直の不二が体育の授業に使ったコーンやらメジャーやらを片していると、少し離れた位置に横たわる渡り廊下を馴染みの顔が通っていく。手塚、と声をかけようとして、彼の視線が何かを捉えていることに気がついた。
真っ直ぐで長い黒髪が美しい少女。
不二は何だ。嫌な場面を見てしまったと息を吐く。
しかしそういう不二もこういう――いわゆる告白の場面に立ち会うことは少なくない。
見目や振る舞いの柔らかさに憧れるのか、彼女たちは不二に向かって必死な様子で愛を囁きかける。
否、恋と呼ぶべきであろうか。
不二には何がそんなに「好き」なのかが解らなかった。
不二も人間である。好意を寄せられて嬉しくないわけはなかったが、かといってそのような感情を実感できるわけでもなかった。
一度気紛れで自分の何が好きなのかと問うたことがあったのだが、しかし相手は困ったように俯くばかりで、ついぞ返答は得られなかった。
つまり、そういうことなのだろう。
彼女たちは不二という人間を理解した上で愛だの恋だのを囁きかけてくるわけではなかったのだろう。
眼前の光景に視線を引き戻す。
不二の位置からでは彼の表情などほんの少しも見えはしなかったが、少女が慌てて走り去ったところを見るだに彼は少女の想いを受け流したようだった。
当たり前だ。彼の中に少女のような存在が入り込める隙などあるわけがない。
彼の中はテニスと勉強で9割以上が占められている。彼を長年見てきた不二だからこそ、確信して言える事実であった。
「手塚」
軽く項垂れた様子の背中に声を掛けるととんだ顰め面で鋭く睨まれた。彼のこの表情は不二の大変な気に入りである。
「災難だったね。誰?1組の女の子?」
「どうしてお前がここにいる」
嫌だなあ、別にコソコソと後をつけてきたわけじゃないよと不二はうそぶく。
「僕は僕の用事でここにいるだけ。で、誰?」
「――委員会で共に仕事をしている女生徒だ」
『女生徒』とは、なんと手塚らしい言い回しであろうか。
ふうん、と気のない返事で不二は手塚に触れた。肩、腕、指。
確かめるように。
「こんな朴念仁のどこがいいんだって思うけどねえ。ま、君は見目がいいし、才能もあるから女の子たちが寄って来るのは仕方がないのかな」
でも、解っていないよね。不二は言った。
そうだ。解っているわけではない。自分の時と同様、彼女に同じ問いを投げかければ同じ様な反応が返ってくることだろう。
彼女たちもまた、手塚という人間を理解した上で告白を挑んでくるわけではないのだ。
いわば手塚はステータスだ。彼女自身を満足させるための。
そんなくだらないもののために彼は彼の貴重な時間を侵されている。害だ。迷惑だ。
……目障りだ。
不二の言葉に手塚がさも解らないという風に首を傾げる。曰く何が『解っていない』のか、と。不二はムッとした。
「何がって、そういうところが、だよ」
手塚の思考を腹立だしく感じた。
それはある種の裏切り、または絶望にも似ていたろうか。
不二はそのまま踵を返すと、手塚をその場に捨て置いて教室へと戻った。一度も振り返らずに。強い歩調を保って。
物言わぬ手塚の視線を痛いほど背中に感じたのだが。
気分が昂り、頬が紅潮していた。
午後の部活で不二は荒れた。
力任せにボールを打ち込んだり、えげつないコースを好んで狙ったりと。
平素では到底考えられないことだった。
不二は同輩からも後輩からも物腰の柔らかく温かい人間だと思われている。そういう様に彼が繕ってきた。
しかしその日の不二の様子は誰の目から見ても不機嫌が明らかで、自然不二の周りには空気ばかりの大円が描かれたのだった。
肩で息をつく不二に声を掛けようとする者はいない。不二の親友を自称している菊丸でさえ、大石の陰に隠れて友人を凝視するばかりである。
こんな不二に唯一声を掛けられる人間があるとしたら、それは彼以外にありえなかったであろう。
「不二」
彼は呼んだ。不二は緩慢な動作で彼を見た。
「部室へ」
それは命令。至極静かであって強かな。不二は無言で彼の後ろに従った。
部員たちが遠巻きに彼らの様子を伺い見ていた。
「どういうつもりだ」
「何が」
日が正面から入らないような造りになっている部室は、昼過ぎでも電気をつけなければ薄暗く感じられた。彼の顔に纏わる陰影が動く度にゆらゆらとしていて面白い。不二は純粋にその様子を楽しんでいた。
窓が締め切ってあるため蒸し暑く、背中に汗がじんわりと滲むのを感じる。
どうやら窓際に陣取った手塚は、暑いので窓を開けるといった機転の利かない質らしい。
空は青く清清しいのに、部室の中だけが湿度で別世界に切り取られたように思えて可笑しいと不二は笑んだ。手塚の眉宇が顰められる。
「あんなテニスをして、お前は何を考えているのかと聞いている」
手塚の強い視線は不二の好むものであった。
話の内容はともかく手塚の綺麗な顔立ちやら、やたら真っ直ぐ見据えてくる漆黒の双眸などが視界に飛び込んでくるので不二は話に集中できなかった。
不二、と再度手塚が嗜めたので、不二は聞いてるよと言った。
そんなに怖い顔などしなくても。
「君の気分を損ねたのなら謝るよ。体調が悪かったんだ。あんなテニスをしてしまって、皆にも嫌な思いをさせたよね。ごめんね」
淡々と、ただ穏やかな口調で、しかしいつものような笑顔は見せずに言う。
手塚の顔が目に見えて険しくなる。しかし彼はそれ以上の追求をしてこなかった。したところで不二が相手では時間の無駄だと解っていたのかもしれない。
そうか、と短く吐き捨てると去り際に「気をつけろよ」などと残してくれたものだった。
まさか不二の話を鵜呑みにしたわけでもあるまいに。
誰もいなくなった部室で不二は手塚の消えたドアをいつまでも眺めていた。
やがて部員たちが戻ってくる頃になると、不二はようやく動き出した。
心ここにあらずといった様相で不二は帰宅したのだった。
彼と初めて会ったのは、入学式後の桜舞い散る裏庭であった。否、「初めて会った」というより「初めて向き合った」という表現のほうが正しいのかもしれない。
手塚と不二はその昔、たった一度だけまみえたことがあったのだから。
不二も手塚もお互いに幼かったし、ほんの一瞬ともいえる時間でしかなかったので覚えていないのも無理からぬことではあったが。
しかし不二はひとめ見た瞬間に彼だと分かった。
新入生総代を務める彼の姿を見て瞠目した。
だからこそ彼の後を追って人気のない裏庭になど足を運んでみたのだ。
「桜、綺麗だね」
不二は話しかけた。
相手は不二に気づいて振り返り、いったい何だろうといった様子で不二をじっと見つめた。
「君、さっき総代やってた子だよね。すごいな。今年の入学試験では満点が出たって先生たちが話しているのを聞いたからそれって君のことだよね。勉強好きなの?スポーツは何かやっているの?」
手塚はじっと無言でいた。不二はいろんな意味で硬そうな子だなと思わないでもなかったが、得意の笑顔を作ってにこにこと相手の返答を待った。
「満点だったかどうかは分からない。勉強は嫌いじゃない。スポーツはテニスをやっている」
手塚はひとつひとつの問いに、まるで一問一答のような答え方をした。不二は面食らった。
曰く変な子供だな、と。
「へえ、テニス」
そういえば、彼を最初に目にした時に、彼はラケットのようなものを持ってはいなかったか。
不二は記憶の中を探ってみる。
「それじゃあ入る部活はもう決めているの」
「ああ、テニス部に入ろうと思っている」
そう言った手塚の顔がほんの少し楽しそうに見えたので、不二もテニスというスポーツに俄の興味が沸いた。
この無表情を歪ませるほどの魅力を持ったスポーツ。面白そうだ。
不二は生来大した努力という努力をせずとも大抵のことはこなせる人間だったので、これといって強く興味を惹かれるものなどないように思えた。
しかしテニスは別物かもしれない。面白いものなのかもしれない。手塚を見てそう思った。
万が一テニスがどうにもつまらないものであったとしても、手塚が一緒ならばそれも楽しめるかもしれない。
不二はそのとき心に決めた。
数日後、テニスコートに集まった進入部員の顔ぶれを見た彼が不二に気づいて軽く首をかしげたのが不二には印象的だった。
交わした会話は数えるほどであったし、クラスも違ってしまって会う機会もなかった彼が自分を覚えていてくれた。嬉しい気持ちがした。
更に彼は強かった。なるほど、テニスが好きだと顔を歪ませるだけの実力が彼には備わっていた。
そのお陰で上級生には煙たがられているようなきらいもあったが、彼はまったくそんなことなど意に介していないようだったので、不二も何食わぬ顔を装っていた。
彼とはすぐに仲良くなった。
あの鉄面皮が慣れてくると、会話の合間にちらほらと笑顔を見せるようにもなった。
春は過ぎ、緑が萌え広がり、暑い日差しとともに夏がやって来ようとしていた。
机上でため息をつくと、どうしようもなく鬱屈した気持ちになった。
誰だったか昔、ため息をひとつ吐くごとに幸せがひとつ逃げると言った人がいたっけな。ボンヤリと考える。
窓から見える月があまりに黄色いように思えて、不二は何だか嘘くさいと思った。
本のページをめくる。読んでいる小説の話が頭に入ってこない。
先ほど勉強をしていてもあまりに意味がなかったので息抜きにと始めた読書であったが、好きな作家のそれであってもまったく気紛れにもならなかった。
どうやら今夜はそういう気分であるらしい。
不二は本を閉じ、またひとつ大きなため息を吐き出した。
「まったく、何で僕がこんな思いをしなきゃならないんだ」
脳裏に浮かんだ顔を恨めしく思う。
鉄面皮。
まったくもって恨めしい。
彼さえいなければ自分はこんな気持ちになどなることはなかったろうにと不二は吐き捨てたい気持ちだった。
しかし、彼のことを思うと自然身体が熱くなる自身のことも、不二はよく理解している。
「真剣勝負とはこういうものだよ」
これはかの氷帝戦の折に部員たちに言って聞かせた言葉だった。負傷した手塚に持久戦をたたきつける相手選手に対して部員たちが罵ったのを諫めた言葉である。
しかし不二自信納得のいかない気持ちでもあった。
どうしてそんな勝負をするのだろうと。
手塚も手塚だ。ここで意地を張って取り返しのつかない負傷を負うよりも、控えの後輩に任せてしまえば良いものを。
どうせ相手チームの控えの選手になど、あの勝気な後輩が負けるはずないのだから。
そんなにまで頑なに意地を張ったところで何の意味があるのかと、不二は再三問いただしたかった。
結果手塚は敗北の上重傷を負い、遠い九州へとはるばる治療のために旅立つはめになった。
全国大会を眼前に、部員たちを置き去りにして。
「まったく…」
ため息と共に不二は繰り返した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。そればかりが頭の中を支配する。
明日、手塚が帰ってくる。
休学の手続き等の一時的な滞在ではあったが、当然部活にも顔くらいは出すのだろう。
不二は明日どのような顔で手塚に会ったら良いものかと机上でえんえん思いあぐねていた。
空は抜けるように青く、高い。
日本の夏独特の湿気が不快に思わなくもなかったが、天候としてはなかなかの部活動日和である。
久々に姿を現した部長に、部員たちは気の引き締まる思いで部活に臨んでいた。
つい先程までミスばかり繰り返していた菊丸が「たるんでいる」との一喝で校庭を10周させられたのが効いているのかも知れない。
不二は遠目から何度も手塚の様子を伺い見ていた。
さすれば視線がかち合うのも道理というもので。
気づいたときにはもう遅く、手塚が不二めがけて一直線に歩いてくる。
不二は逃げ出したい気持ちに駆られた。
「不二」
久方ぶりに呼ばれた名前に一瞬背筋がゾクリとした。
不快なのではなく、これはきっと。
「話がある。部活後少し、居残ってくれないか」
「別に、良いけれど」
何食わぬ顔を装ってはいるが、内心心臓が張り裂けそうであった。
ああ駄目だ。酸素が薄い。先程からどういうわけだか呼吸が上手くいかない気がする。
胸が苦しい。
近寄らないで、空気に溺れてしまいそう。
熱く混乱する不二を残し、それではまたと手塚が去っていく。
手塚が不二に背を向けた瞬間不二の呼吸が戻り、生き返ったかのような心地がした。
手塚の背中を見つめながら、不二は昨夜の思考を反芻する。
――こんな思いを、この先ずっと続けるくらいなら。
いっそ全てを吐き出して終わりにしてしまうのも良いのかも知れない。
ため息がこぼれた。
人気のなくなった部室は哀愁ばかりが漂っていて、これがそういうものなのかと不二は思った。
数年後ここの空気を吸ったならば泣いてしまうかもしれないな、と。
部員たちがいなくなってから大分時間が経っていた。
日も傾き赤焼けの空が覗いている。
ロッカーに残っていたぬくもりさえももう全て払拭されてしまっただろう。
不二は手塚を見遣る。
そうして放っておけばいつまでも口を開きそうもない相手に話は何かと切り出した。
手塚は言った。
「不二の気持ちが知りたいのだが」
「………え?」
あまりに唐突で不可解な展開に、不二は当然のことながら瞠目した。
手塚は感情の見えない表情で黙々と続ける。
「今日久しぶりに不二の顔を見たら、何となく、どうしても聞いてみたくなったんだ。お前が俺を、どう思っているのか」
「何……だよ、それ?」
不二はこの機会に手塚へ自分の気持ちを打ち明けるつもりでいた。
だがしかし、手塚がまさかこんなことを言い出すとは思ってもみなかったので、不二は躊躇い、そうして少々かわしてみることにした。
「君の意図するところが解らないのだけれど?」
「そんなことなどどうでも良いだろう」
「…………」
ねえ、と、不二はふと浮かんだ考えを、まさかと思いながらも口にする。
「それって、告白?」
手塚はしばし考えるようにしてから、「そうかもしれない」と言った。
そんな手塚のとぼけたような様子に、不二は何もかもが馬鹿らしく思えてきて。
一瞬零しそうになった涙を堪え、微笑った。
「九州にはいつ頃戻るの」
不二の問いかけにあと2、3日だと答えながら手塚は身繕いをしていた。
「2、3日かあ。じゃあ明日、少しだけ僕に時間をくれない?行きたい場所があるんだ」
「それは構わないが」
しかしそれはどういった場所なのかと聞きた気な様子の手塚に不二は笑って行ってみれば分かるとだけ言った。
「いいところだよ」
「そうか、それは楽しみだな」
先程まで熱い情交を交わしていたとは思えぬストイックさで手塚は言った。
手塚は眼鏡を外すと変わると思う。
あの真っ直ぐな眼差しがレンズを通さないで直に届くと、不二はどうしようもなくやり過ごせないほどの情動を駆り立てられるのだった。
手塚のレンズはいわばオブラートであったろう。苦い薬を包み込んだ甘い甘いコーティング。たまらない。
翌日部活動の後、校門で待ち合わせてその場所に行こうと約束事が取り決められた。
手塚は手続きの書類うんぬんで部活動には顔を出せなかったので。
春先には花弁で埋め尽くされるその場所は、今は緑でいっぱいだった。
あの頃は胸の近くまで圧迫してきた例の茂みは、今では不二の腰元にも及ばないくらいになっている。
不二は懐かしんだ。
「ここは…」
手塚は驚きを隠せないようだった。
それもその筈、ここは公園のある一角を入り口として、手入れのされていない茂みを抜けていかなくては辿り着けない場所なのだ。
このように日常から離れたような空間を知っている人間は少ない。
ここは彼のいわば秘密基地であったのだろう。
「ここでね、僕は初めて君を見つけたんだ」
不二は笑った。
手塚は驚いたように不二を見た。
「君はきれいな動きでラケットを振るっていて、思わず眸を奪われた。僕はしばらく君の背中を眺めていたのだけれど、そのうち気づかれて、振り返った君に驚き走って逃げた」
懐かしいでしょうと不二は笑う。不二は楽しそうだった。
記憶の世界に浸りきっている不二の耳に手塚の呟きが聞こえなかったのは無理もない。
「そうか…、お前、が…」
あまりに素早い反応だったので、顔までは伺い見ることが出来なかった。
あれはもう幻であったのだったと言い聞かせては記憶の底に封じ込めていたというのに。
あの日、手塚と不二は初めて出会い、そうして互いに思いが芽生えた。
しかしその時の思いと記憶は、運命の悪戯によって、長くすれ違ってしまっていたのだった。
「…そうか……」
口を押さえて頬を染めた手塚の様子になど、不二はまったく気づかなかった。
喧騒の中に凛とした女性のアナウンスが混じる。不二の座る席の前には手塚の少ない荷物が鎮座していた。
まだかな、と腕をあげては時計を覗く。手塚が席を外してからもう随分と経っているような気がする。
「手塚」
人込みの向こうに見知った顔を目ざとく拾い、不二は呼びかけた。
それに気づいた手塚は小走りに不二のもとへと歩み寄る。
「すまない、待たせたな」
「ううん。もう搭乗手続きは終わったの?」
「ああ。それでこれ…」
手塚はポケットの中から何やら取り出すと、ぶっきらぼうにそれを突き出した。
「何これ…花?」
「何か記念になるものをと店を探してみたのだが、良いものがみつからなくてな。ちょうどそれが目についたので少々失敬してきた」
「手折ってきたの?」
呆気に取られた様子の不二に、気に入らなかったかと手塚は呟く。
不二は咄嗟に首を振って嬉しいと笑った。
「手塚が贈り物とか珍しいなって思っただけ。すごく嬉しいよ。大切にする。乾燥させてしおりにでも加工するね」
「喜んでもらえたのなら良かった」
手塚はそう言うと腕の時計をちらりと見、もう行く、とだけ短く言った。
「早く治して帰って来てね」
「ああ」
別れの会話はこれだけだった。
轟音と共に飛び立つ機体を不二は見送る。青い空の中にそれは飲み込まれていった。
まるで彼のこれからを暗示するような清清しい青だった。
手元に遊ぶ小さな花に顔を寄せると、甘い甘い匂いがした。
あの、淡い記憶にあるような。
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